
今日は、ローマ帝国のポンティオ・ピラト総督の下に十字架にかけられて処刑されたキリストが3日目によみがえったことを記念する復活祭(イースター」)の主日。復活祭は春分の日を過ぎた最初の満月のすぐ後に来る日曜日に当たるため、年によって変動する。従って、場合によっては同じ年度に2回イースターを迎えるということも起こり得る。
わが国でキリスト教といえば、恋人と一緒に過ごすことだけが最高の過ごし方だとして思い込まれているクリスマスが若者の間での単なる「年中行事」という形でのみ知られているに過ぎない。神と人との新たな契約に導いたイエスの復活がキリスト教において、クリスマスと並んで最も重要なものとして位置づけられているにもかかわらず、ほとんど知られていないのが実情。
わが国における宗教に対する考え方は曖昧そのもの。政府は政教分離といいながら、小泉元首相は靖国参拝を個人のレベルで行えばよいものを首相の立場で強行するなど、自ら憲法にそぐわない行動をとっている。また、行政や教育委員会は公立学校でありながら平気で君が代・日の丸を強要し、それに従わない教職員・生徒を血祭りにあげるなどの愚行を重ねている。
正月には初詣に出かけ、キリスト教式の結婚式を挙げ、そして最期は仏教式で終焉を迎えることが「当たり前」になっているわが国では、宗教に対して中立的な立場で物事を推し進めていこうなどという発想は皆無に等しいのかも知れぬ。「いろいろな宗教を摂り入れるのが日本の良いところだ」、などと評する者も一方で多いが、それは加工貿易で発展したかつてのわが国の産業発展の姿と宗教観とを単に混同させた「思いつき」に基づくものでしかない。
宗教とは基本的に、唯一絶対的なものを自らの生活の指針や基盤として日々の生活を送っていくもの、といった大きな側面がある。その時々の本人の都合で、神やら仏やらキリストにコロコロと寝返りや浮気しているようでは、外国などに行って堂々と胸を張って行動できるのであろうか。
「外国からどう思われようと関係ない。曖昧な宗教観こそが日本の文化であり、それが定着している以上、外国からとやかく言われる筋合いのものではない」などと反発もあろうが、これでは、150年前の鎖国時代に舞い戻るような懐古趣味的な意見でしかない。自らの扉を固く閉ざし、外部からの意見を聞き入れない頑なな姿は、「いろいろな宗教を摂り入れているところが、日本の素晴らしいところ」と豪語する人物像と相容れないものがある。
問題は一国内に複数の宗教があることではなく、一個人の心の中に複数の宗教が曖昧に混在しているということを忘れてはならない。日本では信教の自由が保障されている。誰が何の宗教を信じようが、私は何一つ異議を申し立てるつもりはない。無宗教で無神論者を自負するだけの強さがあるのであれば、それもよかろう。若い頃は仏教を信じ、大人になってイスラムに改宗するのも自由のはず。ただ、宗教を軽視し、その時々の自分が置かれている立場でコロコロと寝返り、都合や気分で宗教の「いいとこどり」するような傲慢な態度には大いに異議を唱えたい。
キリストの復活を祝し、今宵は自宅で静かに一献といこう!「で、飲みすぎて明日の月曜から二日酔いか」ですって?まぁ、それはそれとして。。。適量を心がけますのでご安心を。。。
<参考記事>
クリスマスを迎えて 日本はいまだに「神の国」?