朝の通勤途中、興味深い出来事に遭遇。この世もまだまだ捨てたものではないなという思いと、今時の表現を借りるのであれば「ってゆぅかぁ、あれってキモくない(語尾のピッチをやや上げる)?」という2つの矛盾した思いが交差した。。。なお、ここでいう「ピッチ」というのは、いわゆる「スピード」という意味ではなく、音声学でよく用いられる「音の高低」を意味する。
駅のコンコースで若いOLがダッシュで私の横を駆け抜けていく。恐らくは寝坊か何かで、会社の始業時間ギリギリの時間だったのであろう。その彼女の背中を追うように、これまた後ろから見た頭髪のスタイルから20歳代と思しき若いサラリーマンが私の横をすり抜けて行く。追いかけっこをしているのか、或いは男に追われてOLが逃げているだけなのか。。。
だが、男性の様子がなんだかおかしい。右手に何かを持っているようにも見える。良く目を凝らしてみると、どうやら定期券のようだ。周りに通勤人がたくさん歩いているため、男性はあまり大きな声を出すことにためらいを感じながらも、おぃ、早く気づいてくれよ、と言わんばかりに「あのぉ〜、すみません」と女性の背中に向かって押し殺したような声で追いかけながら叫んでいる。
OLが男性の声に気づく前に、彼の右手がOLの背中に触れる。彼女はようやく立ち止まって、なぜこの若者が自分の後を追ってきたのか、理解した様子。その男性はOLと同じ会社に勤めているわけでも何でもない、はたまたストーカーや痴漢というわけでもない、ただ単に、OLが落としたとみられる定期券を拾って持ち主に渡そうと必死に追いかけていたのだ。
この後のOLの行動に、ちょっと周りも残念な思いをしたことであろう。あんなに一生懸命に落し物を渡そうと追いかけてくれた若者に対し、お礼の言葉もあったかどうかも判らぬうちに、落し物をサッと自分の手中に収めると、そそくさと走り去ってしまうではないか。若者はあっけに取られたまま、後を追いかけていた勢いから一転して、トボトボと元気なく通路の隅を目立たぬように歩き続ける。
私はOLの態度に対して云々したいわけではない。丁寧なお礼を心がけるといったことは彼女自身の問題であって、丁重な態度をするように強要できるようなものでもない。ここで注目したいのは、OLが「ありがとう」と自然に言いづらい雰囲気が自然と形成されてしまっているという事実と、若者が善良を行ったにもかかわらず、あたかも悪事をはたらいたごときに周りの目を気にしながら小さくなっていないといけないという雰囲気が暗黙の了解の下に形成されてしまっていることだ。
出る杭は打たれる、というのが日本の文化の悪しき象徴であるのであるのは、多くの国民が言葉の上では分かっていること。ただ、それを分かっていながら、どうしても堂々としていられないのは何か根底にあるのか。回覧板を次の家に回す際に、すみません、と何故か謝罪しなければならないのも、諸外国からすると決して理解されないこと。客が店側に向かって、「うむ、ウマかった、料理人とスタッフの心地よい対応に感謝する」と言うことはあっても、なぜ会計で釣銭をもらって「はっ、すみません」と言うことにつながってしまうのか。堂々としていてもおかしくない立場にありながら、何故かそうできない何かがある。。。
「これが日本の文化だから…」で片付けてよいものか、私は疑問をいただく。「『すみません』といのは『ありがとう』と同意義で使うのが日本語だ」、「言葉で謝罪しながらも心で感謝するという奥ゆかしさこそが日本人の美徳である」、などと宣う知識人もいるが、果たしてそんな簡単なことで済ませてしまってよいものか。「すみません」とは本来、謝罪の言葉であって、感謝の言葉ではないはず。それが、ひどい辞書になると、感謝の言葉が一義的な意味として載っているケースもあるほど。
言葉に対する日本人特有の解釈があるのであろうか。これが、日本人を萎縮させてしまっているのだろうか。。。だが、謝罪の言葉と感謝の言葉を混同させてしまうことは、結局は善悪の境目を曖昧なものにしてしまい、それが最終的には犯した罪を罪とも思わない人間に仕立ててしまうことにつながりはしないか、私は勝手にハラハラとしている。
「そんな大げさな」という読者もあろうが、大切なことを後回しにしてきたわが国の政治をみれば、10年後、50年後の日本はどうなってしまうか、もっと危機感をもってほしいところ。言葉は人と人とをつなぐ大事なコミュニケーション手段。この世に存在するあらゆる生き物の中で、人間だけに与えられた体系的なツールとしての言葉。それを蔑ろにすることは、結局は自分自身を大切にしないことにつながる。言葉を大切にしない者に、他人の痛みが判るはずがあろうか。
男性が社会的に見て、決して悪いことをしたわけでもなんでもなく、むしろ定期券を落としたOLに対して善行をはたらいた。彼も、OLから感謝されたくて定期券を拾ってあげたわけではないはず。これがどうして、萎縮しながらコンコースの隅をトボトボと歩かなければらないのだろうか。決して、自慢するのは論外だが、だからといって隠れる理由がない。目立ちたくないのであれば、なおのこそ普通にしていれば目立たなくて済むはず。ある学者が「この国(日本)は病んでいる」と指摘したが、まさにその通り。善と悪との概念が変に交わっている現象が起こっているのではないだろうか。
何はともあれ、件のOLも、きっと感謝の気持ちはあったはず、と信じたいもの。周りに人もいたし、会社にも遅れそうだし、なかなか素直に感謝の気持ちを表せないでいたに違いない。「そんぐらい、察してよ」と思っていたであろうことは、想像に易い。だが、察しだけでは言葉に対する冒涜であり、相手に対して何も伝わらない。以心伝心というマヤカシに頼っているばかりでは、ノウがないではないか。
言わずとも察してくれる、というのは、単なる相手に対する甘えであり、自分が言葉に対して素直でない気持ちを単に隠しているだけに過ぎない。このことに直面する勇気があれば、本当の意味で、この世はまだまだ捨てたものではないと思えるであろうに。。。ってか?
男:「あのぉ、定期、落としましたよ」
OL:「あっ、マジでぇ、わぁホントだぁ」
男:「はい、どうぞ」
OL:「きゃぁ〜、うれぴぃみたいんぁ、あ・り・が・と」
男:「ぃぇぃぇ、どういたしまして」
なんて、自然な会話がどうして生じないのか、私にはただただ不思議なこと。。。ってゆぅかぁ、上の会話って超自然じゃないみたいなぁ。。。
冒頭の写真は、「素直」の花言葉を持つジャスミンの仲間で、インドネシアの国花にも制定されているボルネオソケイ。先日の日記にも記したが、花弁が星状に見えることから別名を「スタージャスミン」という。



