2008年06月18日

素直に言葉に出してみよう

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朝の通勤途中、興味深い出来事に遭遇。この世もまだまだ捨てたものではないなという思いと、今時の表現を借りるのであれば「ってゆぅかぁ、あれってキモくない(語尾のピッチをやや上げる)?」という2つの矛盾した思いが交差した。。。なお、ここでいう「ピッチ」というのは、いわゆる「スピード」という意味ではなく、音声学でよく用いられる「音の高低」を意味する。

駅のコンコースで若いOLがダッシュで私の横を駆け抜けていく。恐らくは寝坊か何かで、会社の始業時間ギリギリの時間だったのであろう。その彼女の背中を追うように、これまた後ろから見た頭髪のスタイルから20歳代と思しき若いサラリーマンが私の横をすり抜けて行く。追いかけっこをしているのか、或いは男に追われてOLが逃げているだけなのか。。。

だが、男性の様子がなんだかおかしい。右手に何かを持っているようにも見える。良く目を凝らしてみると、どうやら定期券のようだ。周りに通勤人がたくさん歩いているため、男性はあまり大きな声を出すことにためらいを感じながらも、おぃ、早く気づいてくれよ、と言わんばかりに「あのぉ〜、すみません」と女性の背中に向かって押し殺したような声で追いかけながら叫んでいる。

OLが男性の声に気づく前に、彼の右手がOLの背中に触れる。彼女はようやく立ち止まって、なぜこの若者が自分の後を追ってきたのか、理解した様子。その男性はOLと同じ会社に勤めているわけでも何でもない、はたまたストーカーや痴漢というわけでもない、ただ単に、OLが落としたとみられる定期券を拾って持ち主に渡そうと必死に追いかけていたのだ。

この後のOLの行動に、ちょっと周りも残念な思いをしたことであろう。あんなに一生懸命に落し物を渡そうと追いかけてくれた若者に対し、お礼の言葉もあったかどうかも判らぬうちに、落し物をサッと自分の手中に収めると、そそくさと走り去ってしまうではないか。若者はあっけに取られたまま、後を追いかけていた勢いから一転して、トボトボと元気なく通路の隅を目立たぬように歩き続ける。

私はOLの態度に対して云々したいわけではない。丁寧なお礼を心がけるといったことは彼女自身の問題であって、丁重な態度をするように強要できるようなものでもない。ここで注目したいのは、OLが「ありがとう」と自然に言いづらい雰囲気が自然と形成されてしまっているという事実と、若者が善良を行ったにもかかわらず、あたかも悪事をはたらいたごときに周りの目を気にしながら小さくなっていないといけないという雰囲気が暗黙の了解の下に形成されてしまっていることだ。

出る杭は打たれる、というのが日本の文化の悪しき象徴であるのであるのは、多くの国民が言葉の上では分かっていること。ただ、それを分かっていながら、どうしても堂々としていられないのは何か根底にあるのか。回覧板を次の家に回す際に、すみません、と何故か謝罪しなければならないのも、諸外国からすると決して理解されないこと。客が店側に向かって、「うむ、ウマかった、料理人とスタッフの心地よい対応に感謝する」と言うことはあっても、なぜ会計で釣銭をもらって「はっ、すみません」と言うことにつながってしまうのか。堂々としていてもおかしくない立場にありながら、何故かそうできない何かがある。。。

「これが日本の文化だから…」で片付けてよいものか、私は疑問をいただく。「『すみません』といのは『ありがとう』と同意義で使うのが日本語だ」、「言葉で謝罪しながらも心で感謝するという奥ゆかしさこそが日本人の美徳である」、などと宣う知識人もいるが、果たしてそんな簡単なことで済ませてしまってよいものか。「すみません」とは本来、謝罪の言葉であって、感謝の言葉ではないはず。それが、ひどい辞書になると、感謝の言葉が一義的な意味として載っているケースもあるほど。

言葉に対する日本人特有の解釈があるのであろうか。これが、日本人を萎縮させてしまっているのだろうか。。。だが、謝罪の言葉と感謝の言葉を混同させてしまうことは、結局は善悪の境目を曖昧なものにしてしまい、それが最終的には犯した罪を罪とも思わない人間に仕立ててしまうことにつながりはしないか、私は勝手にハラハラとしている。

「そんな大げさな」という読者もあろうが、大切なことを後回しにしてきたわが国の政治をみれば、10年後、50年後の日本はどうなってしまうか、もっと危機感をもってほしいところ。言葉は人と人とをつなぐ大事なコミュニケーション手段。この世に存在するあらゆる生き物の中で、人間だけに与えられた体系的なツールとしての言葉。それを蔑ろにすることは、結局は自分自身を大切にしないことにつながる。言葉を大切にしない者に、他人の痛みが判るはずがあろうか。

男性が社会的に見て、決して悪いことをしたわけでもなんでもなく、むしろ定期券を落としたOLに対して善行をはたらいた。彼も、OLから感謝されたくて定期券を拾ってあげたわけではないはず。これがどうして、萎縮しながらコンコースの隅をトボトボと歩かなければらないのだろうか。決して、自慢するのは論外だが、だからといって隠れる理由がない。目立ちたくないのであれば、なおのこそ普通にしていれば目立たなくて済むはず。ある学者が「この国(日本)は病んでいる」と指摘したが、まさにその通り。善と悪との概念が変に交わっている現象が起こっているのではないだろうか。

何はともあれ、件のOLも、きっと感謝の気持ちはあったはず、と信じたいもの。周りに人もいたし、会社にも遅れそうだし、なかなか素直に感謝の気持ちを表せないでいたに違いない。「そんぐらい、察してよ」と思っていたであろうことは、想像に易い。だが、察しだけでは言葉に対する冒涜であり、相手に対して何も伝わらない。以心伝心というマヤカシに頼っているばかりでは、ノウがないではないか。

言わずとも察してくれる、というのは、単なる相手に対する甘えであり、自分が言葉に対して素直でない気持ちを単に隠しているだけに過ぎない。このことに直面する勇気があれば、本当の意味で、この世はまだまだ捨てたものではないと思えるであろうに。。。ってか?

男:「あのぉ、定期、落としましたよ」
OL:「あっ、マジでぇ、わぁホントだぁ」
男:「はい、どうぞ」
OL:「きゃぁ〜、うれぴぃみたいんぁ、あ・り・が・と」
男:「ぃぇぃぇ、どういたしまして」

なんて、自然な会話がどうして生じないのか、私にはただただ不思議なこと。。。ってゆぅかぁ、上の会話って超自然じゃないみたいなぁ。。。

冒頭の写真は、「素直」の花言葉を持つジャスミンの仲間で、インドネシアの国花にも制定されているボルネオソケイ。先日の日記にも記したが、花弁が星状に見えることから別名を「スタージャスミン」という。
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2008年05月26日

「きょなら」って?

つい先日、バスに乗っていたときのこと。自他共に認める?「コギャル語」研究家?の私が、バス乗車中になかなか興味深い新語と出会うことに。新語とはいっても、巷ではごく普通に使われているのかも知れぬが、私にとっては初めての出会いに感動を覚えた。

女子高校生風のオナゴが2名、私のすぐ後ろの席でピーチクパーチクと楽しそうに会話している。時折、会話の中で爆音にも近い大音量の笑い声も混じるので、私の後頭部にも空気を介してかなりの振動が伝わってくる。会話に夢中な彼女たちに、私の鼓膜に相当な負担がかかっていることなどに気を配る余裕などナシ。

2名の少女は、言葉遣いや制服から、恐らくは同じ高校の同級生。別に会話の内容などに興味はないが、たとえ耳をふさいだとしても否応なしに聞えてくるであろう大音量の会話に、ただただなす術もなく意識が傾いてしまう。全く関係のないことを考えようとしても、その努力は無駄に終わり、やがて耳はダンボ状態に。

A子:「ねぇ、『きょなら』って知ってるぅ?」
B子:「何それ『巨大なオナラ』のこと?」
A子:「ってゆぅか、この答え、マジでウザい」
B子:「キャハッ、ハッハッハッハ」
A子:「京都と奈良のことなんだってぇ」
B子:「ってゆぅか、それって修学旅行じゃん」
A子:「若い子の間で使ってるんだってぇ。。。」
B子:「へぇ、マジでぇ?」

少女2名のお陰で、私の薄っぺらなボキャブラリーに厚みを増すことができた。その喜びをここの読者のうっちー氏にお伝えしたところ、コギャル語検定なるものがネットであるので受けてみるようにとのお言葉を頂戴する。

早速、チャレンジしてみたものの、10問中5問しか正解せず、不合格の烙印を押される始末。コギャル語研究家で生計を立てていくことなど、今の私の知識では到底無理のようだ。
posted by 乙さん at 16:10| Comment(11) | TrackBack(0) | 日々雑感-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月23日

復活祭(イースター)を迎えて

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今日は、ローマ帝国のポンティオ・ピラト総督の下に十字架にかけられて処刑されたキリストが3日目によみがえったことを記念する復活祭(イースター」)の主日。復活祭は春分の日を過ぎた最初の満月のすぐ後に来る日曜日に当たるため、年によって変動する。従って、場合によっては同じ年度に2回イースターを迎えるということも起こり得る。

わが国でキリスト教といえば、恋人と一緒に過ごすことだけが最高の過ごし方だとして思い込まれているクリスマスが若者の間での単なる「年中行事」という形でのみ知られているに過ぎない。神と人との新たな契約に導いたイエスの復活がキリスト教において、クリスマスと並んで最も重要なものとして位置づけられているにもかかわらず、ほとんど知られていないのが実情。

わが国における宗教に対する考え方は曖昧そのもの。政府は政教分離といいながら、小泉元首相は靖国参拝を個人のレベルで行えばよいものを首相の立場で強行するなど、自ら憲法にそぐわない行動をとっている。また、行政や教育委員会は公立学校でありながら平気で君が代・日の丸を強要し、それに従わない教職員・生徒を血祭りにあげるなどの愚行を重ねている。

正月には初詣に出かけ、キリスト教式の結婚式を挙げ、そして最期は仏教式で終焉を迎えることが「当たり前」になっているわが国では、宗教に対して中立的な立場で物事を推し進めていこうなどという発想は皆無に等しいのかも知れぬ。「いろいろな宗教を摂り入れるのが日本の良いところだ」、などと評する者も一方で多いが、それは加工貿易で発展したかつてのわが国の産業発展の姿と宗教観とを単に混同させた「思いつき」に基づくものでしかない。

宗教とは基本的に、唯一絶対的なものを自らの生活の指針や基盤として日々の生活を送っていくもの、といった大きな側面がある。その時々の本人の都合で、神やら仏やらキリストにコロコロと寝返りや浮気しているようでは、外国などに行って堂々と胸を張って行動できるのであろうか。

「外国からどう思われようと関係ない。曖昧な宗教観こそが日本の文化であり、それが定着している以上、外国からとやかく言われる筋合いのものではない」などと反発もあろうが、これでは、150年前の鎖国時代に舞い戻るような懐古趣味的な意見でしかない。自らの扉を固く閉ざし、外部からの意見を聞き入れない頑なな姿は、「いろいろな宗教を摂り入れているところが、日本の素晴らしいところ」と豪語する人物像と相容れないものがある。

問題は一国内に複数の宗教があることではなく、一個人の心の中に複数の宗教が曖昧に混在しているということを忘れてはならない。日本では信教の自由が保障されている。誰が何の宗教を信じようが、私は何一つ異議を申し立てるつもりはない。無宗教で無神論者を自負するだけの強さがあるのであれば、それもよかろう。若い頃は仏教を信じ、大人になってイスラムに改宗するのも自由のはず。ただ、宗教を軽視し、その時々の自分が置かれている立場でコロコロと寝返り、都合や気分で宗教の「いいとこどり」するような傲慢な態度には大いに異議を唱えたい。

キリストの復活を祝し、今宵は自宅で静かに一献といこう!「で、飲みすぎて明日の月曜から二日酔いか」ですって?まぁ、それはそれとして。。。適量を心がけますのでご安心を。。。


<参考記事>
 クリスマスを迎えて
 日本はいまだに「神の国」?
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2008年02月28日

「方法論」の乱用

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〜画像:『Wikipedia, the free encyclopedia』より抜粋〜

今に始まったことではないが、よく「方法論」という語を耳にする。多くは飲みの席よりも、むしろ会社やビジネスの会議などで使われることが多い。例えば、次のような会話で。。。

上司:「君、君、この間の新製品だが、売れ行きはどうかね?」
部下:「A地区では好調なのですが、B地区ではいまひとつかと…」
上司:「なに、B地区ではそんなにダメだというのかね」
部下:「はい、かなりの落ち込みぶりで。。。」
上司:「で、B地区の市場調査はどのように行ったんだね?」
部下:「主婦を対象に簡単なアンケート調査を実施しましたが…」
上司:「主婦だって?あの商品は主婦だけがターゲットじゃないぞ、君ぃ」
部下:「は、はい、申し訳ありません」
上司:「主婦だけが対象とは、君の方法論は大いに間違っているぞ!」
部下:「す、すみませんッ」

上の会話はどこかで聞いたことがあるよなないような。。。何はともあれ、上司の最後の台詞で用いられている「方法論」は、明らかに単なる「方法」や「手法」という表現で用は足りる。「アンケート調査という君の方法は間違っている」とすればよいだけの話。が、ここで「方法論」などという表現を用いるから、部下は頭を抱えることになる。

ここで仮に「方法論」という表現をどうしても用いたいのであれば、B地区の市場調査としては単なるアンケート以外にも他に何か方法はないのか、といって点も踏まえる必要があろう。一口に市場調査といっても、アンケートだけで十分なのか、或いは、通行量調査や年齢分布調査なども併せて実施すべきではないのか、といった方法についての根本の部分から議論される必要がある。もっと踏み込むのであれば、市場調査の前に、果たしてこの新商品が売れる商品たるものであるかどうか、といった足元も調査する必要もあろう。

上の会話では、アンケートによる資料収集こそがより正確な市場調査に結びつくという前提条件である「方法論」は一切言及されずに、対象を主婦だけではなく一般に広げた、即ち「方法」のみが変更されているだけの話。この上司は恐らく、「では主婦以外に一体どんな職業層や年齢層にまで対象を広げるべきであるのか」、といった質問に対して恐らく即答できないはず。ましてや、アンケート調査以外にも、どのような有効な手段(方法)があるのか、部下にアドバイスなどできる由もない。

狭い意味での方法論とは、要するに方法についての研究や分析を意味する。方法論などといった仰々しい表現を用いる以上、方法に関する論議がなくてはならないはず。単に「方法」とすれば良いところを、敢えて「方法論」とする話者の心理や行動の背景には、次のような複雑な気持ちや意識が見え隠れする。

(1) 部下や周囲から尊敬されたい
(2) 少しでも抽象的な表現を用いることで一目置かれたい
(3) 具体的な調査の手法について即答できないことをごまかしたい
(4) 相手の「方法」に問題があるのであって、自分は責められたくない
(5) 単に「方法」も「方法論」と同意語として使っていただけ
(6) 部下に対して適切なアドバイスができない事実を認めたくない
(7) 高貴な印象を周囲に与えたい
(8) もっともらしいことを言って上司としての体面を保ちたい

言葉はその話者の心理を如実に表す。口から発する言葉の重みを十分に噛み締めながら、言葉と付き合いたいもの。私とて年がら年中、誤字脱字や漢字変換ミスを繰り返しているので偉そうなことは言えないが、ただ、言葉は人そのものを描写し、映し出すもの。背伸びをして言葉を使おうとすると足元をすくわれる結果になるし、堕落した言語体型の習得は、その人の人生観を狭いものにしてしまう。

言葉は人を勇気付け、そして励ます。反対に、誤った使用は、人を思い悩ませ、心を傷つける厄介な武器となる。言葉の使用は話者本人の自覚と人生経験によって大きく左右されるため、聞く側としてもその辺の事情についての心構えを持ち合わせていたいもの。心に多少なりとも余裕があるか否かで、聞く言葉の受け止め方や理解度がまるで違う。そそ、これぞ言葉のミステリー。
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2007年12月25日

クリスマスを迎えて

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<画像:Wikipedia -The Free Encyclopedia- から抜粋>

今年もクリスマスの時期が到来した。日本でのクリスマスといえば、特に若者の間ではイブに恋人と一緒に過ごすべき社会的なイベントとして解釈されているようだが、これは実に嘆かわしい。

クリスマスというのは本来、キリストの誕生を祝う宗教的な意味合いが強い休日を意味する。従って、キリストが実際に誕生した日を巡っては諸説があり12月25日が実際の誕生日ではないものの、この日は伝統的にお祝いをする日として位置づけられている。

日本のクリスマスは教会等で行われるものは別にして、もはや宗教的な意味合いはほぼ完全に欠如しているといっても過言ではない。産業界のコマーシャリズムに踊らされていることに気づかないでいる限り、クリスマスは単なる恋人とのイベントに過ぎず、我々人間が犯した罪を赦すためにイエスがこの世に遣わされた意義は理解できない。

なお、クリスマスの語源だが、英語の「Christmas」に由来しており、その語源はキリストを意味する「Christ」とミサの「Mass」にあることは、クリスチャンでなくても広く知られている事実。「Christmas」の他にも、北欧に由来する「Yuletide」やフランス語的に「Noel」などとも表記される場合がある。
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2007年12月14日

カミングアウト、みたいなぁ。。。

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<画像:Wikipedia -The Free Encyclopedia- から抜粋>

ここ数年、カミングアウト(またはカムアウト)というカタカナ語をよく耳にする。昨晩、とあるスナックで単独一献に興じていた際、隣に座った若いホステスが「私ぃ〜、カミングアウトしちゃうとぉ〜、実は○○○なんだぁ〜」と宣っていた。「○○○」の部分に何が入るかによって、カミングアウトが単なる「告白」「白状」「打ち明け」といった意味として使われているのか、それとも本来の意味に添った形で使われているのかが決定付けられる。

カミングアウトとは元々、同性愛者などが自分の性指向やエイズ感染などを周囲に対して公表することであり、語源としては、近親者や友人らになかなか告白できずに心理的に圧迫されている状態から抜け出す、つまり「come out of the closet(押入れから出る、殻に閉じこもっていないで外に出る、周囲に対して自己の出生や信条などを公表する)」に由来している。

従って、興味本位で暴露話をするとか、彼氏や彼女がいることを白状するとか、ちょっとした隠し事を公にするなどといった軽い意味で使われるものではないことは明らか。ホステスの「○○○」の部分が、例えば周囲に黙ってある特定の宗教に改宗していたとか、深刻な性病があるなどといったものであれば、カミングアウトに相応しい内容であろうが、仮に「バツイチ」「子持ち」「喫煙者」程度のものであれば、仰々しくカミングアウトなどというカタカナ語を使うまでもなく、単に「実は私、○○○なの」で済む。

で、かく言う私が読者各位に対して何かカミングアウトすることはないのかですって?あ、あるんですよ、それが。。。実は私ぃ〜、女性だったんですぅ。。。って、ぉぃぉぃ。。。このカミングアウト、ちょいキモみたいなぁ。。。
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2007年11月01日

ハロウィーンの夜…

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今日、米国に住む知人からeカードが届いた。クリックして開いてみると、冒頭のような可愛らしいハロウィーンに因んだグリーティング・カード。

このハロウィーンは、カトリックの万聖節の前夜(10月31日)に行われる英語圏の行事。この夜、子供らはカボチャをくり貫いて作ったお化けちょうちん(Jack-o'-lantern)を家の周りに飾ったり、趣向を凝らしたお化けなどの仮装をして近所を練り歩きながら、家々の戸口に立って「Trick or treat」などと言って菓子などをネダるもの。

ハロウィーンは英語で「Halloween」と綴るが、語源的には、万聖節(聖人の日)の旧称「All Hallows」と、夕べを意味する「eve」と同意語の古形「even」が結合し、最後の「v」が欠落して「Halloween」となったといわれている。要するに、HallowのEveで「Halloween」となったということになろう。クリスマス・イブと同じようなもの。

この伝統行事は、元々はケルト人の収穫感謝祭がカトリックに融合されたものといわれている。ケルト人にとっての年末に当たる10月31日には魔女や幽霊が出没するという言い伝えがあるため、身を守るために仮装などをしたことが、今なお行事として受け継がれている。

十数年前になるが、ルイジアナ州に留学していた日本人の高校生がハロウィーンのパーティーに行く途中、他人の家の庭先に入り込み、家の住人に「Freeze!」と言われるも、その意味を解さないまま進み寄ろうとしたため、強盗を勘違いされて射殺された事件が思い出される。

今、日本では11月1日だが、時差がある米国ではまだ10月31日。今頃、旨いものでも食べて飲んで騒いでいるのだろうか。。。
posted by 乙さん at 13:44| Comment(4) | TrackBack(0) | 日々雑感-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月30日

夏祭り

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自治会の夏祭り。。。
焼きそばと焼き鳥が楽しみ。

近所の公園にて。
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2007年05月24日

横浜天主堂跡

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先日の日記の冒頭に掲載している写真の右端に隠れるように立つ天主堂跡の像を訪ねる。みなとみらい線の元町・中華街駅の出口の直ぐ脇なのだが、意外と目立たない。

この横浜天主堂跡とは、フランス人神父ジラールが1862年に建てた日本最初のカトリック教会(天主堂)の跡地のこと。ここ立つキリスト像は横浜天主堂ができた100年後に建立されたもので、今から45年前に遡る。

ここにあった教会の聖堂は、明治の後半に山手に移転。大正の関東大震災を経て、再建され、現在のカトリック山手教会となっている。
posted by 乙さん at 02:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々雑感-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月05日

無意味な過去形はバイト語の延長か…

オフィスの電話が鳴ったので出ると、「あのぉ〜、私ぃ〜、○○の代理店をしております△△商会の者ですけどぉ〜、こちらのお電話は□□さんでよろしかったでしょうか?」、と相手の男性。

文尾の「…□□さんでよろしかったでしょうか?」の過去形が妙にしっくりとこなかったが、今時はこういう表現もナウいのだろうということで、「はい、よろしかったです」と無理して過去形で返答。そう、過去形には過去形で応対するという時制の一致が必要であろうとの判断だ。

電話の内容は、要するに携帯を買い換えてくれ、という内容の単なるセールス。そのセールスのためにこちらに来て話をしたいという、いわばアポイントのためのもの。

男性:「携帯電話の件はお客様がご担当でよろしかったでしょうか?」
私:「わが社に携帯電話の買い替え担当など存在しませぬが。。。」
男性:「では、ちょっとお話させていただいてよろしかったでしょうか?」
私:「〜だったでしょうか?ならば、既に話を通してあるのですね?」
男性:「いやぁ〜、そうではないのですが。。。」
私:「でしょうなぁ。」
男性:「○○時ごろお邪魔させていただいて、よろしかったでしょうか?」
私:「過去形の疑問形ということは、予め話を通してあるのですか?」
男性:「あっはっは、いやぁ〜、そういうわけじゃないんですけどぉ〜。」
私:「過去形だとあたかも事前に話をしてあるように感じるのだが…」
男性:「あっはっはぁ〜、そっすよねぇ〜、はい、すいませんですぅ。」
私:「・・・」
男性:「で、携帯は買い替えということで、よろしかったでしょうか?」
私:「皆個人で持っているので、会社として買い替えは不要です。」
男性:「そうでしたかぁ、はい了解しました。それでは失礼します。」
私:「はい、どうも」

ブチッ、ツーツー。。。

「セールス」「営業」「よろしかったでしょうか」「過去形」をキーワードに検索すると、この種の言葉遣いに対する不平不満が結構あることに気付く。どうして過去形になってしまうのはサッパリ見当がつかないが、そういえば以前、ファーストフード店でよく耳にしたような覚えがある。

「××バーガー3つでよろしかったでしょうか?」
「千円からのお預かりでよろしかったでしょうか?」

バーガーがいくつの注文だったか、数秒前という「過去」の注文を確認するという意味合いがあるのであれば、(百歩譲ってではあるが)この場合の過去形も頷けないでもない。だが、千円札を受け取った途端に、過去形というのは解せない。「千円からの」の「から」も気になるが、今日は過去形だけに焦点を当てる。

1秒でも経ってしまえば「過去」のことなので、過去形を使って然るべきという考えも分からないではないが、店員に千円札を手渡したし、それを店員が確認するまでの1-2秒の空間を過ぎると、目の前の出来事がもう過去の領域に追いやられてしまうのは、一抹の寂しさを覚える。

カウンターでの応対などは、恐らくきちんとした店のマニュアルのようなものがあって、作法や言葉遣いなどを含めて数千にも及ぶ細かな指示が記されているのだと思う。だが、これを身に付けたまま実社会に出て、人と交流することになった場合、若い彼ら彼女らにとって影響はないものか心配になってしまう。

冒頭の電話の主も、恐らく会社のマニュアルか、或いはそのマニュアルで育成された先輩からの直伝に基づいて行動したに過ぎないのだろうが、どうも私としては釈然としない思いが込み上げてくる。

仕事上だけの言葉遣いとして割り切って使い分けができるというのであればまだよいのだろうが、若い彼ら彼女らは物事を吸収し、それをもの凄いスピードで身に付けてしまう。バイトで習った習慣でも、「大きな声で挨拶する」「手をきちんと洗う」といった、そのまま実社会で是非とも発揮してもらいたいものもあるが、そうでないものもあるのは事実。

社会で揉まれながら、一人ひとりが気付いていくしかないのであろう。彼らを受け入れる先輩社会人の責任は重い。
posted by 乙さん at 01:22| Comment(14) | TrackBack(0) | 日々雑感-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月26日

ネズパース族の知人から学ぶ

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〜画像:「Wikipedia, the free encyclopedia」より抜粋〜

今から十数年前のことだが、米国の北西部の広大なエリアを居住地としていたネイティブアメリカンの一部族、ネズパース族の女子大生と知り合ったことがある。あれはまだ私が23歳頃で、ユタ州の田舎にある大学院の修士課程で学び始めたばかりの頃。彼女との交流を通して、いろいろと学んだことがある。

彼女はネズパース族の大部分が住んでいるとされるアイダホ州の高校を卒業して、私と同じ学校に学部生として入学してきた。初めて親元を離れて学生寮暮らしを体験しのだという。キャンパス外で民間のアパートを借りていた私の部屋は、週末ともなると格好のパーティー会場の拠点となった。ある週末の夜、偶然知り合ったのが、ネズパース族の血を引くエキゾチックな顔立ちのこの彼女。

彼女を知るほどに、過去におけるネイティブアメリカンの屈辱的な歴史体験などを理解していった。彼女の家族は皆、ネズパース族以外の血がほとんど混ざっていないそうで、幼少の頃からも他人種との交流はあまり歓迎されていなかったとのこと。ただ、アジア人などには比較的寛容な態度を示すことがあったという。

ネズパース族は伝統的にネズパース語を話す。ただ、今の若い世代でネズパース語を操れるのは皆無に等しいという。一族伝統の言葉を後世に伝えるためにも、ネズパース族の評議会的な機関が、公式に言葉を伝えるプログラムを推し進めているという。当の彼女も、普段は母国語である英語を話すが、ネズパース語はいくつかの単語を知っているだけに過ぎない。

ネズパースは英語では「Nez Perce」とつづるが、本来の意味は「the People」である。人とのつながり、同じ種族との固い結束、独自の文化に対する強い愛着、といったことが由来にあるのではないかと想像してしまう。彼女の意外にも情熱的な一面を垣間見たり、或いは一見頑な態度と思いきや実はネズパース族の一員であることの誇りの裏返しであると判ったとき、自然のなかで大地にしっかりと足を踏みしめて暮らしてきた先祖からの伝統や文化が、若い彼女の世代にも脈々と受け継がれていることが窺い知れる。

ネズパース族の多くはキリスト教徒だという。自然のなかで神の見えざる手によって生かされているという事実を謙虚に受け止める姿勢には共感できるものがある。自然も人間も同じ創造物。旧約聖書には、人間が地球上のものをコントロールできるとあるが、これも単なる人間のエゴのために好き勝手に自然破壊を行っても良いということではないはず。コントロールするということは、そのものを大事にすること意味として含まれる。意のままに処分してよいということでは断じてないはず。

今、地球環境が危機に瀕している。今年の冬も異常なほど暖かく、首都圏ではほとんど雪ナシで終わってしまった。まだ2月なので、雪ナシとは断言できないものの、既に春一番も吹いているため、これから3月や4月にかけて積雪を記録することは、もはやあり得ないのではないかと思ってしまう。

人々の生活は自然との共存の上に成り立っているという考えは、いつの時代になっても色あせることはないのではないか。合理的な生活に慣れ、経済至上主義が当たり前になっている今こそ、自然環境への配慮を忘れ去れないようにすることが、現存の世代にとっての大きな課題であろう。
posted by 乙さん at 01:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 日々雑感-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月04日

新造語「入毛」の解釈を巡って

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今や野毛ラーの間でも新語として市民権を得つつある「入毛」という新造語。。。この生みの親ともいうべき「住まいは海の近く」の管理人seikoMTD氏の素晴らしい発想力には正直、驚嘆の念を禁じ得ないものがある。この新語の定義付けや解釈を巡って、いくつかの主だったブログでも議論が重ねられている、というのはちょっと大げさだが、ふと定義とその語用について私なりに考えてみたくなった。

「入毛」はそもそも、「入る」という動詞と「野毛」という固有名詞を併せた造語で、凡そ単純に意味するところは「野毛に入る」といったものになる。これが転じて、飲食店が軒を連ねる野毛に入るという行動を、一般的には「野毛で飲食する」といった意味として捉えられているものと推察される。明治以降の断髪令や廃刀令に代表される「脱亜入欧」という思想があるが、「入毛」もこれと同じような経緯で編み出されたものなのかもしれない。周知の通りこの脱亜入欧は、当時、後進地域として考えられていたアジア(亜細亜)を脱し、列強な国々を擁する欧州の一員になることを目指した日本のスローガンである。下手に他の場所で飲むのであれば、野毛で飲んだほうが間違いない、という長年にわたる飲食体験に裏打ちされた氏の熱き思いが込められた新語なのであろう。

さて、この「入毛」、まずは国文法と音声学の見地から整理してみたい。品詞では何に属するであろうか。わが国の国文法では、名詞、数詞、代名詞、動詞、形容詞、形容動詞、連体詞、副詞、接続詞、感動詞、助詞、助動詞と12種類に分類しているが、この中で言うと「名詞」ということになろう。名詞があるということは、ここから無理にでも「派生」させた動詞が存在していても不思議ではない。動詞の基本形の語尾によくある「…る」をつけて強制的に動詞をつくってみると、「入毛る」となる。かなり無理矢理だが、できないことはない。

となると、この新たに派生した動詞の読みは「にゅうもう・る」となる。が、残念なことにちょっと発音しにくい。便宜上、ローマ字で標記すると、音韻上は「nyu」「u」「mo」「u」「ru」と5音節に分けられる。第1音節「nyu」と第2音節「u」は実際には「ニュー」と長母音的に発音されるため、音節が一つ減って4音節と考えられ、「nyu-」「mo」「u」「ru」となる。これでも、まだ発音がし辛い。言語の経済性という考え方があり、例えばフランス語のリエゾンなどがその代表例。省略することで、少しでも簡単に発音しようとするのが人間である。最後の3音節を「もうる」ではなく、「もーる」にするのも手かもしれないが、そうすると、「ニューモール」となってしまい、あたかも「New Mall」で新しいショッピングモールでもできたのかと勘違いする野毛ラーもいらっしゃるに違いない。そこで、私が提唱したいのは、最後から2番目の「u」と省いて、「nyu-」「mo」「ru」、即ち「にゅーもる」と実際には発音できればいいのではないかと勝手に思ってしまっている。

仮に「入毛る」という動詞を、実際には「にゅーもる」と発音しつつも、ひらがなでは「にゅうもる」と表記するのであれば、語尾変化(活用)のパラダイムは次の通りにならざるを得ないとするのが自然の成り行きであろう。

基本形:入毛(にゅうも)・る
未然形:入毛(にゅうも)・ら、入毛(にゅうも)・ろ
連用形:入毛(にゅうも)・り
終止形:入毛(にゅうも)・る
連体形:入毛(にゅうも)・る
仮定形:入毛(にゅうも)・れ
命令形:入毛(にゅうも)・れ

入毛(にゅうも)・らず、入毛(にゅうも)・ります、入毛(にゅうも)・る、入毛(にゅうも)・るとき、入毛(にゅうも)・れば、入毛(にゅうも)・ろう、と立派なラ行五段活用の動詞であることが明らかになる。

では、実際の運用における意味の定義付けをみてみたい。私は基本的に「言語は生き物である」というスタンスをとっている。「ヤバい」という口語体の形容詞があるが、これは本来、法に抵触する恐れがあるとか、身に危険が降りかかることが予想される様を形容したものであり、「危ない」とか「危険な」といった語に置き換えられるものである。それにもかかわらず、今の特に若い世代における運用の現状をみると、「ヤバい」はもはや危ないという意味ではなく、「凄い」というむしろ肯定的な意味を持つ語として使われてしまっているケースが多いことに気付く。かように言語というものは、世間の大多数が誤って使ってしまうと、それが定着して使用者の間での市民権を得てしまい、最終的には本来の意味に取って代わってしまうといったケースが多々ある。

似たようなケースは他にもある。よく耳にするのが「確信犯」。今ではほとんどの人に、「悪いことと知っていながら罪を犯す人」と解釈されているようであるが、実の意味は全く違う。本当は政治的、思想的、宗教的な「確信」に基づいて罪を犯す人のことを意味するのであって、「知っててワザとやった」、といった軽い意味ではなく、むしろ、政治犯や場合によってはテロ組織をさすものとして使われる。この「確信犯」も、時の流れの中で次第に両方の意味が辞書に載るようになってしまうかもしれない。それはそれで言葉は生き物である以上、仕方がないことなのかもしれない。

さて、「入毛」だが、意味の定義は何であろうか。ごく普通に、横浜の台所といわれる野毛地区で物理的に行くこと自体を意味するのであろうか、それとも実際にその場での飲食という行為が伴わない以上は「入毛」とは言わないのであろうか。要するに、「入」の意味が、単なる物理的な接近や進入を意味するものなのか、それとも、同地区で何かしらを「体験・体感する」、地区に「溶け込む」、地区と「一体となる」といった意味までも包括するのか、といったことが論点になる。前者であれば、通りすがりの人でも「今日は入毛したぁ〜」ということができるし、後者であれば、野毛地区の店の多くが飲食店であることを加味すると、飲食や物品購入がない限りは単に「今日は野毛を通り抜けたぁ〜」という表現となろう。

いずれにせよ、新語「入毛」の生みの親であるseikoMTD氏がかなりの野毛通であると同時に、私が3人かかっても敵わない鋼鉄の肝臓の持ち主でであることを踏まえれば、解釈は当然、暗黙の了解として後者ということになる。飲食や物品購入があってはじめて「入毛」を使うに相応しい要件を満たしたことになる、と解釈して差し支えないのではないだろうか。だが、こればっかりは、ご本人に確認する必要があろう。

また、もう少し踏み込んだ解釈をするのであれば、野毛との一体感といった観点からすると、野毛に行き、飲食をし、そして野毛にまた来たいと思う、といった一連の行動と心理の連鎖が新語「入毛」の意味の根底を支えているといっても過言ではないのではないだろうか。入毛する彼ら(受け入れる側からすれば「来毛者」となろう)が、彼らなりに入毛して、満足のうちに帰途に就いてくれることが、究極の「入毛」となるのではないだろうか。入毛で満足を得るということは即ち、店側にとってもありがたい来毛者であるはず、という等式が成り立つはずである。

客の満足はいずれ店の満足につながる。。。非常にシンプルでありながら、ついつい忘れられてしまいがちな概念であるが、この「入毛」という新造語の解釈を通して、私なりにつたない思いを巡らせることができた。野毛の店とそこに集う客とをつなぐ「入毛」、実にしっくりとくる新語ではないか。多くの市民に使われ、いつの日か辞書に載るほどの市民権を得ることを切に願っている。
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2006年04月17日

日本はいまだに「神の国」?

先日、用事あってとある省庁関連団体に出かけたときのこと。用紙の右上に提出日の年月日を記入することになっているので、2006年○月○日と記入し、押印して窓口に提出するも、受付ができないと戻された。

受理できない理由としては、西暦を使っているからだとのこと。この組織では和暦しか使っていないので、それを使わない書類は受付ができなと宣う。西暦で受理してもらった前回に倣って、今回も西暦で提出したのにもかかわらず、受理が不可能だとのこと。書類に和暦を使うように明記されていなかったので、前回と同じように提出したのに。。。と私は大いに憤慨した。

窓口で押し問答をした結果、窓口の職員は親切にも本部に連絡をしてくださり、西暦でも受理可の了承を得たので無事に書類の受付をしていただいたのだが、問題は組織の体質にあろう。窓口でゴネる私に対しても、職員の方は民の立場に立って臨機応変な、また非常に感じの良い応対をしてくださったのにもかかわらず、肝心な規則やらが立ちはだかっており、弊害を生んでいる。

そもそも、申請者に対して和暦を強要するということは、それなりの納得できるような理由があって然るべきである。和暦ということは、即ち「元号」をさす。納得を得られるような理由でないと、天皇問題や戦争責任、政教分離といった話に発展してしまうわけであるから、西暦にせよ、和暦にせよ、申請者が自由に選択できるようにするか、もしどうしても合理的な処理ということがあるのであれば、用紙にはキチンと「和暦を使用のこと」と明記願いものである。

「暦」と一口に言っても、仏教暦やらイスラム歴などがあり、個人の自由ばかりをもちあげていては足並みが揃わない。だからといって、和暦を強要するということは、日本国憲法の基本原則を乱暴に踏みにじり、戦前の思想に回帰しようと試みた、どこかの国の首相の「神の国」発言に通じるものがあるとみなされても否定できない。

憲法20条で「信教の自由」が謳われているが、同時に国による特定宗教の助長を禁じており、これがいまだに骨抜き状態になっているのであろうか。皇族と民間人との婚姻も不思議でなくなってきている今、天皇の人権を認め、憲法の下において人は全て平等であることを国としても認識するべきであろう。

天皇問題、戦争責任、政教分離とくれば、当然ながら靖国問題にも触れざるを得なくなる。憲法で信教の自由を認めているのであるから、首相が個人のレベルで参拝することは何ら問題はない。それが、首相の立場で参拝しようとするから問題となるのである。公の組織が申請者に対して和暦の使用を強要しようとする姿とダブらせてしまうのは私だけであるまい。

念のため申し添えるが、私は和暦を使うなと主張しているのではない。事務処理の合理化のため、ある特定の歴を使わざるを得ないのであれば、その旨を明記すると共に、「なるほどぉ、こういう理由で和暦を使うのだな」と利用者に分かりやすいように努めることで、ある程度のトラブルは防げるのではないかと思っている。「和暦を使って当然」、という半ば強要しているような態度には屈するべきではない、ただそれだけのこと。

日本はいつから戦前の神の国に舞い戻ってしまったのであろうか。主権がどこに存在しているのか、もう一度考えるべきときがきている。そんなことを、昨日のイースターの主日に思い巡らせた。
posted by 乙さん at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々雑感-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月05日

キング牧師夫人、逝く

060202-kingkorettascott.JPG
<Image excerpted from Wikipedia, The Free Encyclopedia>

公民権運動の指導者として知られる故マーティン・ルーサー・キング
Jr.牧師の夫人、コレッタ・スコット・キング氏が去る1月30日、78歳の生涯を閉じた。

コレッタ夫人の幼少期は貧しい生活ではあったが、後に出会うキング牧師との間に4人の子供に恵まれ、4人とも両親と同じように公民権運動に参画した。キング牧師が暗殺された後は、牧師の遺志を継ぎつつ、南アフリカのアパルトヘイトに代表される差別問題などにも精力的に取り組んだ。後年、児童文学に顕著な功績を残したアフリカ系アメリカ人作家に贈られる「コレッタ・スコット・キング賞」が創設された。

夫人は晩年、脳卒中と心臓発作により入院生活を余儀なくされた。亡くなったのは、療養先のメキシコのリハビリセンター。遺体は生地の米国アラバマ州に移送され、遺族の同意が得られれば、キング牧師が眠るキング・センターに埋葬される予定となっている。
posted by 乙さん at 04:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々雑感-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月02日

聖燭節(キャンドルマス)

カトリック教会では、2月2日はキリストの聖母マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けた日とされている。

この日は、聖母マリアの清めの日という祝日なのだそうだが、古い時代よりロウソクを灯した行列を行ったことから、キャンドル(Candle=ロウソク)+マス(-mas=祭式)でキャンドルマスと呼ばれるようになった。

因みに、日本語では、聖燭祭(せいしょくさい)と呼ばれている。また、クリスマスもChrist(キリスト)+-masが語源となっている。さらには、この「-mas」は教会でのミサ(英語では「Mass」)もここが語源になっているのだろうか。

待降節(アドベント)に入ると、あちこちの教会で必ずといってよいほど読まれる新約聖書の個所がある。参考までに、ルカ福音書第1章26-38節(日本聖書教会・新共同訳)からの引用を次に記そう。

1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
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2005年12月19日

よこはま国際性豊かなまちづくり市民フォーラム

横浜市が中心となって主催した「よこはま国際性豊かなまちづくり市民フォーラム」が去る12月10日、横浜みなとみらいにあるパシフィコ横浜の小ホールにて開催された。当日は山形弁が得意なタレントして有名なダニエル・カール氏を招き、本年度の検討課題でもある「外国人にも魅力あるまちづくり」と題した基調講演があった。

講演のなかで講師のカール氏は、緊急時の避難場所や毎日のゴミの出し方などの生活全般に関する情報は既に英語のみならずスペイン語、韓国語、中国語などの多言語で紹介されており、ハード面については、他の自治体と比較しても横浜は大きくリードしていると言及。そのうえで氏は、20数年にわたる自らの日本生活を面白おかしく振り返りjながら、「外国人にも魅力あるまちづくり」を目指すには、こうしたハード面のみならず、むしろ日本人の市民とのコミュニケーションの促進といったソフト面も重要視されるべきであると強調した。なお、氏が提案する日本人と外国人とのコミュニケーションをスムーズに図るポイントやキーワードは次の通り。

■主語
 主語が表面上現れない日本語の理解に、多くの外国人が苦しんでいる。日本人同士であれば全く問題ない会話でも、外国人にとってみれば、まったく不可解な会話に聞こえてしまう。
 例えば、日常でよく使う「行ってきます」。これには動詞の「go」(行って)と「come」(来ます)しか含まれておらず、「誰が」という主語が欠落しており、理解に苦しむという。問題は主語の欠落だけでは終わらない。「何処へ」行ってくるのか、「何時」行ってくるのか、「何の目的で」行ってくるのか、といった詳細なことが抜けている。
 学生服を着た少年少女がいうのであれば、今から学校に行くために家を出る際の挨拶ということで理解が生まれるが、こと外国人にとっては、特に在日で日が浅い外国人にとっては不可解極まりない表現であるという。

■謙遜
 日本と海外とでは「謙遜」の意味合いが異なる。海外での謙遜は、自分自身のみならず、配偶者や子供、親戚などを含めた身内までをも「下げる」ことが美学とされているが、海外では家族といえども別個人であるため、謙遜は自分自身のみを下げることに用いられている。
 愚妻やバカ息子など、初対面の相手に紹介するときにこのような語を使うと、それを聞いた外国人は驚いてしまうそうだ。なぜ、自分の身内をけなすのだろうかと。

カール氏はその他にもいろいろと具体的な例を取り上げて、楽しく講演を続けてくださった。参加した市民にとって、有意義なフォーラムであったといえよう。

なお、カール氏の基調講演に引き続き、パネリストとして招いた4名の横浜の著名人を中心にパネルディスカッションを展開。市民も自由に意見や質疑を述べることができるという市民参加型のフォーラムは、成功裡に閉会した。
posted by 乙さん at 06:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々雑感-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月02日

追悼 香田証生さん


福岡県にある伊都キリスト教会で奉仕されていらっしゃる木村公一牧師のホームページの管理人さんからメールが届いた。木村牧師は昨年、米英によるイラク先制攻撃が現実味を増す中で、「人間の盾」としてイラクの首都バクダッドに赴き、人間とその社会の安全保障の重要性を訴えた方である。

このたび、イラク訪問中に武装勢力に拘束・殺害された福岡県出身の香田証生氏の追悼式が次の通り開催される運びとなったので、その案内が管理人さんから寄せられ、併せて福岡のみならず遠方の方への周知も希望されているため、以下にその全文を掲載することとした。

追悼 香田証生さん(福岡県直方市出身)

日時・場所:
11月6日(土) 18:00、天神警固公園集合 (福岡市中央区天神2-2) 20:00頃終了予定

呼びかけ:
Love and Peace/牧師・木村公一/荒牧勢津夫(元教師)/石村善治(福岡大学名誉教授) /藤岡直登(真宗遺族会)/石川捷治(九大教員)/牧師・中條信治/山口実(翻訳業)池田良子/西山進(漫画家・被爆者)/牧師・廣島尚 【連絡先】Love and Peace 092-534-8885

恐れていたことがおきてしまいました。10月31日、イラクで武装集団に拘束されていた香田さんの死亡が確認されました。わきおこる悲しみと憤りを抑えることはできません。

この悲痛な事態は、政府が自衛隊の撤退という武装勢力の要求を拒絶した時から危惧されていたものです。占領下で苦しむイラクの人々に寄り添おうとした一人の青年は、自衛隊駐留のために見殺しにされたのではないでしょうか。私たちは、この事実を忘れることも許すこともできません。

「イラクの人たちに一日も早く平和が訪れますようにお祈りいたします」 この香田真澄さんのメッセージを真摯に受けとめるべきではないでしょうか。私たちに求められているのは、「テロとの戦い」ではありません。イラクの人々との和解です。

この度のイラク戦争で、すでに10万人のイラク市民が犠牲になったといわれています。アメリカによる大義なき戦争の開始と占領の継続は、数え切れないほどの悲劇をもたらしています。自衛隊のイラク駐留は、それを支えるものではないでしょうか?

イラクに平和を求め、憲法の平和主義の理念を高くかかげ、自衛隊の即時撤退を強く、強く、求めましょう。
posted by 乙さん at 03:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々雑感-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする